石 井  哲(いしい さとし)
1950年8月生まれ、大分県津久見市出身

大阪電気通信大学在学時、交通事故で入院その後中退。回復後体をこわし帰郷し大分市内の商社勤務。数年後落ち着いたところは家電専門店の(株)ベスト電器。以来20年にわたり店舗の販売員として従事。

最初はオーディオ担当だったが、その後OA機器(ワープロ)担当となり、独自の販売手法で九州一の売り上げを上げ、トップセールスとなる。しかし当時の量販店の販売戦略と異なることから、社内では異端扱いされる。
さらに展示・ディスプレイ方法から販売員の接客法まで、社内研修+独学で習得。休日は自分の顧客先だった看板屋さんの作業場に出向き(表向きはPC指導)カッティングシートなどの看板作りの技法を習得(?)。

表向きはOA機器を主に、家電店頭販売員として多くのお客様の支持を戴くが、「モノ作り」の興味は子供の頃からあり、店内の自作のPOPやディスプレイ用品は数知れず。
約20年勤めたが、社内規定で役職を離れたのを機会に、早期退職。その道に活路を見つけようと自営の道を選び現在に至る。
※大分県デザイン協会会員









通っていた中学校にブラスバンド部ができた。
当時の親しい友達に誘われ入ったけど、小学校で縦笛経験しかない私はやむなくクラリネットを担当する。楽器らしい楽器を初めて手にした瞬間。音階が吹けるようになるまで数ヶ月。しかもパートはセカンドで主旋律は吹けない。必死で楽譜の勉強。何とか理解しながら演奏することが出来るようになった。
ある日合唱部の顧問の先生から混声四部で男声がほしいからと勧誘される。変声期を迎えていた僕は、毎日ベース&バリトンパートを特訓させられた。お陰でコード進行を身体で感じ、簡単なメロディーならすぐにハモれるようになった。



中3の時ギターを買ってもらった。黒くてかっこわるい質流れギターだった。当時の教則本といえば「古賀政男ギター教本」で、練習曲は「影をしたいて」とか「湯の町エレジー」。
そのころ加山雄三がエレキギターを抱えて映画にテレビに出てきた。本人のかっこよさより彼の手にしていたエレキギターが欲しかったが、当時の高校は「エレキギター禁止」。
高校3年仲間3人とフォークバンドを作る。初ステージの予餞会(写真)で、仲間一人が風邪で休んだので、女の子と二人で歌うはめになった。

大学に進むと世の中にはとんでもなくギターのうまいヤツがいることを知った。ラジオから流れたドッグワトソン(盲目のギタリスト)という人のレコードを聴いたとき、ショックを受ける。
すり切れるまでレコードを聴き、毎日5時間以上ギターを弾いた日々。お陰でピッキングとフィンガリングの基本が身に付いた。さらにしっかり弾くことが出来るとそこそこの楽器でも「いい音で鳴る」ことを知る。今でも音の悪さを楽器の性にするヤツに合うと、無性に腹が立つ。

しばらく大阪で暮らすも身体を壊し帰郷。その後結婚。以来20年間演奏活動を封印することになるのだが、幸か不幸か職場の担当はオーディオ販売員。高級オーディオの世界を身近に体験することが出来た。おかげでジャンルに拘らずにいろんな音楽を聴くことができた。
ところで「良い楽器」は、いい音を出すことが出来るが、弾き間違うとその間違った音まではっきりと出てしまう。オーディオの世界も同じ。
しかし職場の周りの人は私が「楽器を演奏する人」だとは誰も知らなかった・・・・

50歳を超えて、思い切って退職。自営の道を選ぶ。20余年ぶりに楽器を手にする機会を得て、飲み屋に集まる連中とフォークバンドを作った。しかしメンバーの練習スケジュールが合わず一度もステージに立つことなく3ヶ月で解散。
のち楽器店のメンバー募集で、ベンチャーズコピーバンドに加担。約4年間エレキサウンズを楽しんだが、ベンチャーズの熱狂ファンに見られるのは辛かった。音楽が好きということと、ファン心理は微妙にちがうようだ。メンバーチェンジをきっかけに退く。真のベンチャーズファンの皆さんには大変ご迷惑をおかけしました。
アマチュアでベース奏者やっている人ってギターやピアノと違い少ない。それで他の音楽仲間から「代役」を頼まれることがある。
ちょっと手伝ってと誘われ出かけたバンドは4〜5名の軽音楽コンボバンド。選曲は全くジャンルにこだわらない。まさに津軽海峡冬景色から、テイクファイブまで・・・・その後ここに居座る。
現在はこのバンド1本で音楽活動中。今までの技術・知識をフル活用しても難解なジャズ。とはいえ今日も音楽を楽しんでいる。